2006-10-15

引っ越しのお知らせ

このBlogger betaにBlogを開設してひと月ちょっとになりますが、早くも引っ越すことにしました。
新天地はアメーバブログです。

記事まるごとの引っ越しです。すでに全エントリーの移設を済ませています。
サイト名、コンセプト等はまったく一緒です。URLのみが変わります。
まだあまりいないと思いますが、ブックマーク等されている方は以下のURLに変更をお願いします。

◎ecrits - 言葉の樹海 by Ameba
http://ameblo.jp/nornsaffectio

以後、Blogger betaの『ecrits 〜〜言葉の樹海〜〜』は、無期限の放置状態に突入します。基本的にこちらの更新は行いませんので、(いるかどうかわからないけど)RSSの登録をしている人は、お手数ですが新たにAmebaの方でフィードを取得してください。

あと、すでに付けられているコメントは、エントリー移設先に追記としてアップします。書き込まれた方(つっても、K氏だけだけど)において、不都合等ございましたらご一報下さい。

お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします。

2006-10-11

「根こぎ」にされたリベラリズム ------ ロールズと井上達夫の狭間で

後期ロールズが陥った「政治的リベラリズム」も、それを批判しロールズ以上にロールズらしいリベラリズム像を模索する井上達夫の正義基底的なリベラリズムも、それぞれがそれぞれの陥穽を抱えている。その両方を同時に批判し、生かしつつ乗り越える思想的ポテンシャルは、シモーヌ・ヴェイユの内にしか埋まっていないのではないか。

と、『重力と恩寵』を読みながら思った。

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リベラリズムからアウラを奪った「政治的リベラリズム」は、正義の特殊構想を公共的討議に向けて開きながら、なおかつその討議空間を特権化することを拒否することにより、正義の一般構想が新たなる(そして最も悪質な)正義の特殊構想に身を堕する危険を回避しようとする。リベラリズムを純粋に「地上のもの」にしようというのだ。だが、この「リベラリズムの脱哲学化」を推し進めることは、すでにある討議空間そのものにたいする批判の契機を奪うことにもなり、結局、討議空間がただの「強者連合」に堕してしまう危険を内包してしまうことになる。この点を批判する井上達夫は、批判の原理としての「哲学的リベラリズム」の復権を唱え、討議空間の普遍的性質を維持すべしとする。しかし、こうして再構築され再定義されたリベラリズムの哲学は、まさに「定義」されているがゆえに過度に具体的な内容を抱えすぎる虞をもつ、具象の罠を抱えるものであり、前者よりも動的ではあるものの、やはり「特殊が普遍を騙る」危険を拭いきれていない。それは水が高きより低きに流れるが如く、重力に引かれ、やがて普遍とは違うものを帰結してしまうだろう。

やはり普遍的なもの、無限なるものという「恩寵」は、語られた瞬間に僕たちの手をこぼれていってしまうものらしい。望まれた恩寵は恩寵ではないというわけだ。とするならば、公共的討議空間の普遍性を「定義」する試みは、ついに堕落の運命から逃れ去ることを許されないだろう。やはり公共的討議やリベラリズムというものは、いつでも「語られざるもの」である必要がある。その点に勘づいたことに関しては、さすがロールズというべきだろうね。しかし、井上の指摘にも一理あって、メタ討議的視点を奪われた公共的討議の場は、それじたいをチェックする視点がない。すると、井上のいうとおり、そこは現状の「強者連合」を追認するだけの、弱者の参入をあらかじめ排除したものに堕してしまう、つまり「低きに流れる」危険性を孕むことになる。やはり重力に引かれているのだ。

可能なるリベラリズムというものがあるとするならば、あるいは真に普遍的な公共的討議空間というものがありうるとするならば、それは「根こぎ」にされたものとして粛々と実行され続けるものでしかないだろう。そして、そこに至る道も恐らく、現実の「特殊な」政治構想を「根こぎ」にし続けることによって見出されるよりないのだ。その在処は、運命の女神nornsだけが知っている。

◎参照論文:井上達夫「リベラリズムの再定義」、『思想』2004年9月25日号P.6~28、岩波書店(申し訳ありませんが、左記論文は図書館等でお探し下さい)

◎参考文献:本文で紹介した本の別訳
重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄
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2006-10-08

シモーヌ・ヴェーユ「一叙事詩をとおして見たある文明の苦悶」読了

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僕たちが地球上で人間として生きる限り、なんらかの「国」と関係を持つ。たとえば日本。それは、統一された「ひとつのもの」として把握される。それと同時に、ある一定の領土とそこに住まう国民がその「ひとつのもの」に属するものとして統一的に認識される。「ひとつの国」という想像が成立するわけだ。その一例が、「日本国」という観念。これはちゃんと祖国を持つ者にとっては空気のような存在で、ふだんはあまり気にも留めていない。「よし、空気を吸おう!」なんて気合いを入れて呼吸をする者がいないのと同じだ。しかし、ひとたびその空気がなくなったとき、僕たちはあらためて空気が存在していたことを痛感する。そのことは祖国分裂者やクレオール、無国籍者の例をみれば想い半ばに過ぎるだろう。たとえば前田日明、たとえばフジ子・ヘミング。ひとたび祖国を「選択」すべき立場に立たされたとき、空気のようだった「ひとつのもの」は、何か異質なかたまりのようなものとなり、「根こぎ」になってわれわれの目の前に現れるだろう。

ヴェーユが「一叙事詩をとおして見たある文明の苦悶」と「オク語文明の霊感は何にあるか?」をものしたとき、彼女は祖国喪失の淵に立たされていた。そういう時期にあった彼女が、「フランス」という観念のヴェールにより上書きされロストしてしまった、もはや地球上に存在しない「ひとつのもの」、南仏オク語国家に想いを寄せていたのは、いかなる内的必然があっただろうか。いまとなっては想像力に訴えるしかなくなってしまった事情は、運命の女神nornsのみぞ知るところだ。

今宵僕は二つの論文のうちひとつを読了したわけだが、これを読むとヴェーユがいかにこの中世ラングドックの都市文明に「想いを寄せていた」かを思い知らされる。なにしろ、歴史において精神的自由と寛容、豊穣さが高度に達成された時期はたったの二回だけで、それが古代ギリシャ文明と中世オク語文明だというのだ。近代文明を生きるわれわれは、いま現在こそ最高度に精神的・身体的自由が達成されていると考えがちだが、ヴェーユに言わせれば、近代の自由はその達成度の高さにおいて、ギリシャ文明やオク語文明に遠く及ばないという。

ヨーロッパは、この戦争の結果失われた精神の自由を、以後おなじ程度に見出したことはけっしてなかった。というのは、十八世紀と十九世紀の思想闘争から除去されたのは、もっとも粗雑なかたちの力だけであった。(P.210)

「この戦争」というのは、アルビジョア十字軍戦争のことである。当時フランスはカペー王朝を中心とする北仏と、トゥールーズ伯家を政治的中心とする南仏とに分裂していた。中世ヨーロッパといえばカトリック教会権力の全盛期という認識をされるのが一般的だが、当の南仏の場合はそれにあてはまらない。当時の南仏は都市文明が栄えていて、カタリ派信仰に象徴される独自の文化をかたちづくっていた。そこはあらゆる精神の富が流入してくる条件を備えており、北方、イタリア半島はもちろん、アラブやペルシア、さらにはエジプト文化までも流入し、それらがほどよく混交していた。南仏の精神文化は寛容で、異なるものを受け入れる土壌をもっていたのだ。ある意味ではカタリ派の信仰こそそうした多文化的状況を象徴するもので、それはキリスト教異端信仰のひとつとみなされているけれども、その実態は東方正教会の信仰(とりわけブルガリアのそれ)やグノーシス思想、さらには遠くマニ教の影響も指摘される、地中海精神文化の見本市のようなものだったらしい。

ところが、この多様性が問題だったのだ。ヴェーユも指摘しているように、現代を生きる僕たちは西欧中世について、不寛容こそその時代の宿命だったと考える。もちろんそれはカトリック教会の権威によるものだ。中世カトリック教会は、自らの教会こそ地上に実現された神の王国だと考え、その組織の中にキリスト教信仰のすべてを包摂しようとした。もともと多様でバラバラだった信仰をひとつのパースペクティブのもとに統合しようとするときに起こることは、信仰の内面化である。内面化された信仰は自己同一性をもちはじめ、つねにそれが「地上唯一のもの」であることを確認しようとする衝動をもつ。もちろん不純な要素があってはマズイ。不純な要素は、せっかく打ち立てた「地上唯一の」システムをふたたびバラバラにしてしまう。だからカトリック教会は、みずからの解体の契機にもなりかねない異端信仰を敵視した。それがグノーシス主義の生き残りとあっては尚更だ。グノーシス主義は、原始キリスト教会確立期において最大の脅威だった。カタリ派は、カトリック教会のトラウマを呼び起こしてしまったのだ。

ましてカタリ派の故地・南仏はトゥールーズ、カルカソンヌ、フォワ、モンペリエ、マルセイユ等の都市文化が栄え、西欧でもっとも繁栄した土地だった。首府だったトゥールーズは、ヴェネツィア、ローマに次ぐ、西欧第三の都市だった。それに対し、カトリックの支配地域は農村主体の土臭い田舎。北仏の諸侯たちは南仏都市国家群の繁栄をさぞ嫉ましく思っていたことだろう。そんなときに下った異端カタリ派排撃の勅命は、かれらにとって願ったり叶ったりだったに相違ない。こうして、1209年のカルカソンヌ侵攻から1244年のモンセギュール要塞陥落まで前後36年にも及ぶアルビジョア十字軍戦争は始まった。

まさにその精神的自由と豊穣ゆえに呼び寄せた災厄は、大量虐殺、略奪と放火などのかたちで南仏全体に降りかかり、地中海精神の精華だった南仏文明を徹底的に破壊した。以後、信仰を失い、独自の文化も言語も失った南仏ラングドックは、フランスという「ひとつのもの」のなかの一部分=片田舎と化し、存在を忘却されてゆくことになる。ヴェーユが注目した「一叙事詩」、即ち『アルビジョア十字軍叙事詩』(略して『十字軍詩』)がつくられたのは、この戦争も最末期に近い時分のことだ。

『十字軍詩』には、ひとつの文明の崩壊がうたわれている。ほんの少し以前には飛躍の一途を辿っていたひとつの文明のことごとくが、突然の武力の暴威によって死の痛手をこうむり、永遠に消え去るべき運命のもとに置かれ、そして最後の苦悶にあえぐ姿は、トロイア文明の崩壊の物語としてホメロスが『イリアス』にうたいあげたところだ。現代人は『イリアス』に「崇高」の概念を付すだろうが、未曾有の繁栄と永久消滅とを同時にうたったという意味では、『十字軍詩』もおなじ「崇高な」境遇に置かれている。ヴェーユがラングドック文明をギリシャのそれに準えたのも肯ける。


力も精神の諸価値を滅ぼすには無力であるという月並な表現ほど、過去にたいして残酷なものはない。こうした意見のために、人は軍隊の暴力によって滅亡させられた文明がかつて存在したことを否定する。しかも、人は死者たちの否認を恐れずに、そうすることができるのだ。こうして、人は滅びたものを再び滅ぼし、そして武力の残酷さに同意してしまうのである。(P.219)


ヴェーユは力の歴史を見続けた人である。ある勢力はその実力をもって他の勢力を圧倒し、やがて支配/被支配の秩序を確立するが、それもやがて新たなる力のもとに屈服する。人々は「力への意志」に衝き動かされ、歴史の一頁を飾る。何人も「力への意志」に逆らうことは出来ない。この残酷な下等神デミウルゴスの世界のなか、わたしたちの「けだかさ」はどこにあるのか。ニーチェの歴史認識を受け継いだヴェーユの行き着いた答えは、俗流ニーチェ主義にかぶれたナチスとは正反対のものだった。


敬虔さはわれわれに命じる、たとえ稀なものであるにせよ、滅亡した文明の跡を慕いその精神を銘記することに努めよ、と。(P.219)


中世地中海の太陽の如くあったラングドック文明は、「力」に関しても独自の感覚を持っていた。通常、国家秩序をもたらす支配/被支配の関係は、一方の他方にたいする暴力をともなって実現する。そこで実現されるのは権力だが、権力は権威を必要とする。前にも話した、自発的服従の契機である。中世におけるそれは、カトリック教会の権威とその信仰だった。通常はこのように、内面化されたひとつの世界観に帰属させられることにより、支配は正統性を獲得する。こうした伝統の嫡出子たる現代世界でもそれは変わらない。自由と民主主義、あるいは資本という「内面化されたひとつの世界観」に人々は衝き動かされ、その権威のもとに資源を奪い合い、支配し、服従し、脅威にさらされる。今日カトリック教会は、アングロ=サクソン文明によって周縁に追いやられた挙げ句、かつてとは逆に危殆に瀕した多様性の擁護者の役割を(とりわけ南米において)果たそうとしているが、じつに皮肉な話だ。かれらも「力への意志」の前に無力だったわけである。

ところが、異質な信仰どうしの容れ物でもあったラングドック文明にあっては、いささか事情が異なる。中世の他の例に漏れず、ラングドック地方の各都市はそれぞれ諸侯の領地だったが、それら諸侯はトゥールーズ伯の家臣だった。こう聞くと僕たちは、いかにも中世らしい典型的な身分制社会を想像するが、実態は違ったようだ。なにしろ、政治のトップであるトゥールーズ伯からして、「何事においても町全体、(中略)すなわち騎士や町民や庶民に諮」って市政を行っていたのだ。その市政が、民主的に選出された住民代表のカピトゥールの手により行われていたのはその一例である。自由な精神の持ち主であったラングドック人は、自由を愛する者すべてがそうであるように、みずからの矜恃の念を傷つけてまで他人に服従することを好まなかった。そこには秩序があり、治安が保たれていたにもかかわらず、言論においても信仰においても人々は自由であり、かつ階級は一体化していた。その支配の特色は、ヴェーユの説明によれば、騎士道に裏打ちされた住民の高度の公民的徳性により支えられた、文字通りの自発的服従だったという。

こういった「力」にたいする感覚がよほど身についていたものと見えるのは、アルビジョア十字軍戦争の真っ只中にあり、トゥールーズ伯の実力が完全に奪われた時点になっても、住民が自発的服従を表明し、トゥールーズ伯を支えようとしたことからも窺い知ることができる。『十字軍詩』において、トゥールーズ伯は戦いに敗れ、地位も財産も奪われ乞食同然の地位に陥り流浪するが、アヴィニョン自由市の住民は、トゥールーズ伯が領地をとりもどすために、みずからすすんで生命をなげだすことを約束するのだ。すでにまったくの無力の徒と化していた者に嫌々服従する義理がないことを考えると、その騎士道精神の寛大さがどれほどのものであったかが知られる。

どうして彼らはそこまでしてトゥールーズ伯にすすんで服従することができたのか。なにが彼らをしてそこまでの献身に駆り立てたのか。かれらが守ろうとしたのは何か。ヴェーユによると、それは文明の精神的価値そのものにあった。文明などという概念はまだ存在していなかったため『十字軍詩』の作者は言語化に苦慮しているようだが、その詩情は、ラングドック(=オク語の土地)において、その自由と豊かさがトゥールーズ伯の治世と渾然一体となっており、自由を愛することがトゥールーズ伯に服従することと不可分だったことを示している。


こうした精神と公民的感情の合一、そして自由と正当の領主とにたいするおなじように強烈な愛着は、十二世紀のオク語の国以外のところでは見出せなかったものである。(P.214)


現代社会において、自発的な献身ということほど不自然なものはない。現代人は公民的徳性を捨て去り、せせこましい私人にみずからを矮小化することにより、資本という名の怪物にいやいやながら献身させられ、隷従の一生を送る。それは、シエラレオネの少女売春婦からアメリカ大統領に至るまで変わらない、現代人の業病だ。

当然、ヴェーユはそのことを知っていた。誰よりも深く知っていたと言っていいだろう。彼女は、すでにナチスの手に落ちたフランスにあって、政治的指弾の脅威に晒されていた。資本に見捨てられんとしたが為に独裁者を戴き、精神文化から国民の生命に至るまで浪費的な投資の糧としてきたナチズムは、現代人の業病の急性転化した症状だった。彼らと闘ったヴェーユは、最後までこの業病にたいする服従を拒否しつづけた。そして1942年5月、マルセイユの港から出国したヴェーユは、清冽な拒絶の姿勢を貫き、一年と少し後、短い生涯を閉じる。まるでそれが必然的な運命でもあったかのように。(了)



◎参考:松岡正剛の千夜千冊『重力と恩寵』シモーヌ・ヴェイユ
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0258.html

◎参考文献1:ヴェーユの主著その1・『自由と社会的抑圧』
自由と社会的抑圧
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◎参考文献2:ヴェーユの主著その2・『重力と恩寵』
重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄
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◎参考文献3:マルセイユの時期のヴェーユを知るための好著にして、最適の入門書
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2006-10-06

シンハー&グリーンカレー、SIAM Nuts

予定通りシンハーを調達。前に紹介したSIAM Nutsと、一緒に調達したグリーンカレーをつまみにして飲んだ。シンハーはおいしかった。(……?)





これはシンハー。…って、見たままだね。グリーンカレーで灼けた舌を優しく冷やしてくれた。麦芽の味もしっかりしていて、かのタイ料理の強烈な味に負けていない。タイではまるで水のように飲まれているそうだが、納得のいく話だ。








こちらはレトルトのタイカレーシリーズ中の、グリーンカレー。透明になって浮いているレモングラスが印象的。味に関してはノーコメント。




調達したシンハーは一本だけだったので、すぐに足らなくなった。あとはジントニックにジンライムというお決まりコース。SIAM Nutsは想像したよりも味もニオイも強烈。デート前日の人には絶対にお勧めできない代物だ。勿論、シンハー一本きりでは足りたものではない。

シンハーを調達したのは、月に2、3回ほど、近くを通りがかったときに寄る大型ディスカウントショップ・やまや。たぶん僕が知っている中ではいちばん品揃えが豊富。この間の輸入食材店では本格的なやつしか置いていなかったフォーも、ここではインスタントがたくさん置いてあった。しかしハリダがなかった。それにつけても、やまやはビールに関しては一癖ある品揃えだ。独自輸入ブランドが多いためか。

2006-10-04

「1票格差5.13倍合憲」……?

毎度恒例の定数配分訴訟。今回は5.13倍に及ぶ一票の格差を巡って争われた。

◎1票格差5.13倍合憲、参院定数訴訟 - 東京/AFP通信
http://www.afpbb.com/article/953952

◎[参院選]「1票の格差」5.13倍は合憲 最高裁/livedoorニュース
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2529868/detail?rd

これらのヘッドラインを見て、僕は思わず顔を顰めたよ。

「え?5.13倍の格差に合憲判断が出たってこと?事情判決の法理はどうしたんだよ?

この二つのヘッドライン、誰が読んでも5.13倍という格差そのものに合憲判断が出たと思わせるような文面だ。しかし、大学で憲法をマジメに勉強した諸氏ならすぐ疑うと思うけど、最高裁が5.13倍を合憲と明言してしまうとはちょっと考えにくい。まあ確かに、当件で争われたのは参議院議員選挙だし、参院に関しては格差に関する判断が比較的甘いから、(いつも通り)違法宣言をするとまでは(衆議院と違って)行かないだろうとは思った。ただ、事情判決の法理ってものがあるので、違法宣言が出たところで選挙そのものが無効になる可能性はどのみち低い。

なら、わざわざ格差の数値そのものを合憲と明言する必要はないわけだ。これまでどおり、「ま、望ましくない状態なのは確かなんですがね、参議院の選挙制度は一種独特なもんがありますし、数字だけで一概に違憲かどうか問題にするのは……」って感じで逃げておけばすむところ。にもかかわらず、上記事ヘッドラインには「1票格差5.13倍合憲」とはっきり書いてあったのだ。

おかしいなあと思っていたら、やっぱり違っていた。

◎参院定数訴訟:配分は合憲「1票格差」は是正を 最高裁/MSN毎日インタラクティブ
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20061005k0000m040049000c.html

従来通りの立場じゃないですか、これ?前の選挙のあと格差の是正をしきれなかった政治部門に対してちょっともの分かりがよすぎるきらいがあるのはいつものことだし、あとは憲法の教科書にも書いてあるくらいの定番の論理構成。いま現在の格差は問題あるかもだけど選挙そのものがダメってわけじゃないよ、って。「配分は合憲」ってのは、要するにそういうこと。5.13倍が合憲ってわけではない。そっちに関しては判断を避けている。

とすると、「1票格差5.13倍合憲」ってのは、明らかにミスリーディングだ。法律を知らない人が記事を書いたんだろうね、きっと。


◎内容に関連した本1:P.114~116にこれまでの判例を通じた詳細な説明あり

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憲法佐藤 幸治

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それにしても、livedoorニュースの記事、毎日の記事をソースにしてるっつーのに……。

(注意:夜半は法曹三者や法律学者等、法律に関する情報に職業的責任を持てる立場にある者ではありません。このエントリは一介のペダンチストが彼独自の理解に基づき、かなり大胆に戯画化して判決を評したものです。あまりマジにとらないようにしてください。)

◎内容に関連した本2:P.185~186に「事情判決の法理」に関するまとまった記述あり
憲法
憲法長谷部 恭男

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ハリダ&ヤムヤム

新しくできた大型商業施設の専門店街で面白い店を見つけた。店頭でコーヒーをサービスで出してくれたので、珈琲・紅茶の専門店かと思いきや、入ってみるとライスペーパーにキャンベルスープ缶から、おむすびころりん野沢菜茶漬けまである、中々泣かせるラインナップの輸入食材店だった。もちろん珈琲、紅茶の取り扱いも種類豊富。僕もいくつか購入。

そのうちのひとつがこれ。ハリダHALIDA。ベトナム・ハノイのビールだ。



ベトナムものなだけあって、フォーや生春巻きなんかと一緒に飲むとおいしいという説明があった。オリオンビールがゴーヤチャンプルーにぴったりというのと同じことだね。でも、ゴーヤならともかく、フォーや生春巻きとなると、僕には少しばかりハードルが高い。確かに、フォーもライスペーパーもこの店で売っているし、フォーなら何とかなりそうかとも思ったけど、やっぱり少し考えた。そのとき視界の隅に目に入ったのがこれ。



写真のふたつのうち、ハリダのお供に指名したのは手前にある赤い袋詰め。ヤムヤムヌードル。日本でもそこそこ有名なタイのインスタント焼きそばだ。味はもちろん、酸っぱ辛いタイ風。気のせいか、それとも同じインドシナ半島ということで系統が似ているということか、意外とハリダに合っている。ハリダは苦みが控えめのさっぱり系だが、酸味が強い。そこがマッチしていたのだ。

こういうチャンポンの取り合わせをしてみるのもなかなかの酔狂だ。いかにも日本人くさい。

写真奥の緑色の箱にはまだ手を付けていない。レモングラスや何かを一緒に入れた、同じくタイのナッツだ。こっちはシンハーと合わせてみようかな。

2006-09-24

スパイいろいろ/カート・ヴォネガット『母なる夜』と、とあるニュースに関連して

Good evening. ようやく秋到来かな。

さて、今晩気になったニュースはこれ。

◎敵国の友人救ったジャーナリストスパイ死す - ベトナム/AFP通信
http://www.afpbb.com/article/920217

件の人物はPham Xuan An氏。ムリヤリ仮名読みすると「ファン・クァン・アン」氏、ってところかな。昼間は『タイムTime』誌のサイゴン特派員、夜は北ベトナムのスパイとして活動していたという人。こう聞くと、二重スパイか?……などと思ったりもするのだけれど、タイムの特派員だったのはちゃんと特派員だったわけで、するとアメリカ向けの情報は業務として正々堂々と送ればいいわけだから、二重スパイというわけではないのかな、などと思ったりもする。しかし、米傀儡ゴ・ディン・ディエムNgo Dinh Diem首相の諜報機関にいたことを考え合わせると、やっぱり一時的にせよ二重スパイ状態だったことはあったのかな、とも思えるわけで、ちょっとややこしい記述だなというのがこの記事を読んだ感想。

二重スパイというと、僕が思い出すのはカート・ヴォネガット『母なる夜』のハワード・B・キャンベル・ジュニア。(以下、あらすじを記述。ネタバレを嫌う人は本パラグラフを読み飛ばされたし。)彼が活躍したのは第二次大戦中のドイツで、表向きはドイツ向けのナチスよいしょ放送の原稿を書いていた煽動ファシストだが、同時に暗号で米側に独軍側の情報を流すこともしていた、バリバリの二重スパイだ。活動としてやっていることのヤバさがそれぞれ半端でなく、ハワードは分裂した人格を構成することなしにはこの境遇に堪えられなかった。戦後彼はニューヨークに滞在するが、かつての恋人の妹が現れたあたりになってから次第にアイデンティティの基盤をひとつひとつ奪われていき、ついには破滅してしまう。

母なる夜
母なる夜カート・ヴォネガット

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それに較べるとAn氏の場合、すくなくとも記事から伺える限りでは、そういった種類の悲惨さを感じさせない。


『私は一度も、誰にも嘘をついたことがない。タイム誌にもホーチミンにも同一の政治情勢分析を提出していたからね』(記事より)


もちろんAn氏はベトナム戦争期のスパイだったわけで、それなりに人死にに関わることもやってきたはずだが、仕事の内容自体はジャーナリズム活動という範疇で把握しきれる、ごく地味なものだったのだろう。その仕事が利する陣営はその都度分裂していても、やっていること自体は客観的な政治情勢分析だから、割り切ることもできたのか。たしかに、政治情勢分析という「商品づくり」を我が役割と割り切ったうえで、たまたま客が敵味方と両方にいただけ、という風に考えられたなら、悲惨な戦場でもなんとか自我を支えきれるのかもしれない。といっても、所詮は「搾取する側」の国民の、勝手きわまる想像に過ぎないけれど。

ともあれ、ベトナム終戦後はかえって不自由を強いられてきたAn氏は79歳で天寿を全うし、2006年9月20日に逝去した。

じゃあ、今宵はこれだけ。Good night.

2006-09-21

Seagram's Exta Dry Gin

きのう言った強い酒の正体。

これまではビールの話題ばかりだったけど、実は僕、そんなにビールばかり飲んでいるわけではない。というより、ほとんど夏季限定と言った方がいいかもしれない。夏以外は、ごくたまに気まぐれで飲むくらいのものだ。なにしろ、昔はビールが苦手な方だった。味は好きだったが、なかなか大人しく胃を通過してくれないビールは僕にとって飲みたくても飲みきれないものだった。自然なペース配分を覚えるまで、僕とビールはすれ違いの日々を送っていたってわけだ。ところが、奇妙なもので、ビールが苦手だったにも関わらず、それよりはるかにアルコール濃度の高いスピリッツ類はまるで平気だった。なかなかご縁のないアクアヴィット以外はみなそれなりに飲んでいる。わけてもよく飲むのが、ジンというわけだ。

ジンは穀物を原料とした蒸留酒で、ウォッカの親戚のようなものだが、その最大の特徴はジュニパーベリーJuniper berryによって香り付けされていることだ。だから、ジンを飲むとハーブの爽快感が舌と鼻に強烈な刺激を残してゆく。けれども、テキーラなんかに較べると自己主張は強い方ではないので、カクテルに好んで使われる。

ところで、ジンに香り付けしているのはジュニパーベリーばかりというわけではない。大概の銘柄は他数種類のボタニカルとブレンドして漬け込み、銘柄独特の香味を出すのだ。なかには「漬け込む」という方式を採らない銘柄(ボンベイ・サファイア)もあるが、それについてはまたの機会に譲ろう。とにかく、ジンの愉しみ方は、このボタニカルのブレンド具合を味わい分けることにもあったりして、奥が深い。珈琲や紅茶みたいな愉しみ方ができるってわけだ。なんというエンターテイメント性。

僕が飲み比べた感じでは、その方向性には二種類の傾向があるように思える。ひとつは、ゴードンのような、クールな感じのするもの。いまひとつは、ビーフィーターのような、柑橘系の柔らかな香気を持ったもの。写真のシーグラムは、明らかに後者だ。

さて、ゴードンやビーフィーターが本場イギリスのドライ・ジンであるのに対し、シーグラムはアメリカ代表。あちらではトップ・ブランドに位置づけられるほど普及している代物で、日本にも輸入されている。ストレート・ロックでもカクテルベースでもいけるユーティリティープレイヤーだ。こいつをうんと冷やしてロックで飲むのは、暑気の抜けきらない涼しさを感じるこの季節にはもってこいの愉しみ方だ。もちろん、ジントニックやジンパック、ギムレットなんかもいい。一般家庭でも手軽に作れる飽きの来ないカクテルだ。外で飲むなんて野暮なことはやめて、家でじっくり飲むのはいかがだろうか。

シーグラムズ・エクストラ・ドライ・ジンは、日本ではキリンが輸入販売している。でも、ライセンス生産しているわけではないので、ちょっと手に入りにくいかも。

◎Seagram Gin/KIRIN
http://www.kirin.co.jp/brands/sw/seagramgin/index.html

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2006-09-20

norns的小泉政権概評

Good evening. 久々の星空だね。

日付が変わって、今日は9月20日。日本人にとっては、政権与党の自民党が総裁選挙を行い、今夜にも新総裁が誕生する日、……と、そういう日でもあるね。現況からして新総裁はそのまま26日には新総理ということになる公算が大きいから、国民の関心は自然とそちらに集まる。そして、一週間後には、安倍晋三内閣が生まれるってわけだ。もちろん総裁選次第でまだどうなるかわからないけど、かなり高度の蓋然性があるといえる状況だね。

そうなると、いまのうちに現首相・小泉純一郎氏についてふりかえっておくのがいいんだろうね。もちろん、彼に関する評価はこの先長い時間をかけて定まっていくもので、それは時の女神nornsの扱う範疇のものだけれど、僕たち凡夫がちゃんと考えを定めておくというのもまるで無意味というわけではない。凡夫には凡夫なりの必要というものがあるからね。だから今日は、小泉総理と彼の政権の行ってきたことについて話すとしようか。

ところで、面倒なので、以下基本的に敬称は省略するよ。

といっても、政治ジャーナリズムとか政策論的な総括といった類のことは、すでに他所が飽きるほどやっている。おととい、NTV系で小泉政権のドキュメンタリーをやっていたけど、それもその一つだね。僕も観たよ。情報として目新しいものがあったわけではないけれど、それなりに面白かった。それにしても、田中真紀子のことを、あんな連ドラによく出てくるヤラレキャラの敵役キャリアウーマンみたいな描き方をしてしまっていーんだろうか。間違いなく「空気感」は出ていたけど。

閑話休題。ニュースの総括や政策論的評価などといったことは専門家がとっくにやっていることだし、そういうのを求めてこんな辺鄙なところに来る人もいないだろうから、あまりこだわらずにざっくりふりかえってみよう。

いしいひさいちが昔、それも小泉が厚相をしていた時分だから相当昔なんだけど、その時分に小泉厚相のことを「小泉口先厚生大臣」という風に呼んで揶揄していたことがあった。どうしてそんな昔の漫画表現を持ち出すのかって?小泉首相という人のことを考えるとき、僕はこの「口先〜大臣」という形容の仕方をいつも思い出していた。というのも、総理になって以降の彼の行動パターンも実に的確に捉えていると思ったからだ。

一部からすでに指摘がある通り、小泉純一郎という人は日本において近年まれに見る「政治的パーソナリティー」を備えた人だね。自分が政治家としてやろうと思ったことは、権謀術数を駆使してでもなにがなんでも成し遂げようとする。そういう執念みたいなものを、日常茶飯の振る舞いの中に身につけてしまっている人。こういう人は、民主政体下でなくても政治家をやっていただろうね。もっといえば、職業としての政治が成立していない社会であっても、何らかのかたちで政治的振る舞いをしていた人なんだろうと、そのくらいのことを考えさせるところがある。その意味でいうと小泉は、森喜朗等とは余程ちがった政治家にみえる。その功罪はともかく、本当に政治家に向いている人といえるわけだ。

実際、彼は郵政民営化関連六法案が参議院で否決されたことをきっかけに、衆議院を解散している。当時僕は参議院もここまで軽んじられる時代になったかと思ったけど、こういった様態の解散は憲政の常識からして非常識であるのみならず、議会制民主主義の論理に照らしても意味不明な選択なんだ。参議院を解散するわけじゃないんだからね。

しかし、小泉純一郎は純粋に政治的にものごとを考えた。解散・総選挙を経て世論の支持が得られれば、郵政民営化関連六法案を通すことができると、その見通しだけで、近代的議会制民主主義の論理を無視した。いや、無視できてしまったんだ。彼にとって、郵政民営化という政治目的のためには、そんなこと(!)どうでもいいことだった。それほど政治目的に殉じることができるという意味では、彼ほど政治家向きな政治家はいない。

ただし、それは彼の行動原理を外側からみた場合に限っての話。問題はその中身、つまり彼が何を成し遂げようとしていたかに関わるところにある。つまり、政治目的の持ち方だ。小泉は政治目的をどのようなものとして考え、また扱っているか。そのことを考えるとき、先の「口先〜大臣」という見方が生きてくる。

小泉純一郎は、たしかに目的達成のための強い執念を備えた「政治向きの人格」をもつ人だが、肝心の目的観念が弱い。いいかえると、小泉は目的達成にはものすごくこだわる人なんだけど、目的そのものは具体的な内実が欠けた「ただの記号」に過ぎない。目的が「軽い」んだ。

どうせここは辺境なんだから、はっきり言ってしまおう。要するに、小泉にとっての政治目的とは、たんに体裁に過ぎないんだ。「やる」と言ったことを「やった」とあとで言えるだけの形式的な条件さえ整えば、あとはどうでもいいんだ。なぜなら、そういう体裁さえ整えておけば、あとでやいのやいの言われても「俺はやったんだ」と強弁してその場をやり過ごせるからね。

いい例が靖国問題。彼は総裁になるとき、「自分が総裁になったら終戦記念日に靖国神社に参拝する」ことを公約した。これに関しては、いろいろな人がその政治的含意を忖度し、侃々諤々のイデオロギー論争をしてきたけれど、まあこの際それはいいよね。みんなよく知っているでしょう。とはいえ、話を進めるために一例を挙げて、「靖国参拝により中韓の反発を招いて極東の軍事的緊張を誘発し、その不安をベースとして憲法改正の気運を高めること/世論作りをすること」だとしておこう。だとすれば、ためらわずさっさと行けばよかったわけですよ。そのくらいの強引さは持ち合わせた人なんだから。でも、行かなかった。というより、終戦記念日以外とか「中途半端な参拝」が続いた。まあ、現実は厳しいからね。

そして、そのまま小泉の総裁任期が終わっていたなら、イデオロギーはともかく、政治的にはたんに彼の実行力の問題で済む。ところが、ここが最も彼らしいところなんだけど、小泉は任期終了の約一ヶ月前というギリギリになってから、駆け込むように「終戦記念日の参拝」をしたわけだ。もちろん、「もうすぐやめる首相」と化した人間の参拝なんて、パフォーマンスとしての意味はほとんどない。あるとすれば、あとで責められたとき言い逃れができるって事だけ。彼にとって、「終戦記念日の参拝」という公約/政治目的はその程度のものでしかなかった。

僕が例の「口先〜大臣」という形容を思い出したのはそんなタイミングでのことだったんだけど、そこから思い起こしてみると、これまで小泉が首相として行ってきた政策等は万事この調子なんだ。

たとえば、小泉の政治的立場はネオリベで、彼の構造改革路線はそれに基づいたものだとよく言われているよね。曰く、小泉と竹中の市場原理主義的な構造改革路線はホリエモンに象徴されるような拝金主義を招来し、格差社会をつくった、等々。

じゃあ、本当に彼らが市場原理重視で政府のスリム化を行ってきたかというと、そんなことはないわけで、かえって赤字を200兆円以上増やしている。その痛みはモロに国民に被さっている。……とまあ、ここまではよく言われるところだけど、実際はそれに先んじて企業の方に痛みは掛かっている。銀行の貸し付け実績が大幅に増えるでもなければもちろん消費不況下売り上げ増加もなく、それでいて保険料負担などは増えているので、企業は帳簿を見てカリカリするばかりになってしまった。そうして安易に人件費削減に走った企業はかえって体力を減耗、ますます状況は悪くなった。その結果企業の業績は回復しないわ、消費は冷え込んだまんまだわ、若年失業者やフリーターは念願の正規雇用に与ることも叶わないままタコ殴り状態だわで、行き着くところは治安悪化に社会不安ときている。それなのに数値上なぜか景気は回復、と。

つまり、小泉政権は一応ネオリベ的な政策を看板にしているけれども、実質、規制緩和により企業の経済活動が活発になるとか、労働市場が流動化して一度失業した者もすぐ再雇用に与れるようになるとかいう、市場主義のもたらす基本的な恩恵とはまったく逆のことばかり引き起こしてしまった。でも、ホリエモンみたいな考えの浅い人間が出てきたり、経営者が社会責任を忘れて会計帳簿ばかり気にするようになったとかいう意味では、ネオリベ的な政策を行ってきたように見える。だから、小泉の立場をネオリベと言ってもだれも疑問を差し挟まない。僕は大いに疑問だけど、それはまた別の話。加えて、なにより数値上なぜか景気は回復基調に見える。誰もそんなこと本気で信じていないけれど、関係ないわけだ。

まあ、こんなに話しておいて何だけど、この点にはあまり深入りしないでおきたい。力を入れたところで、所詮在野のペダンチストの判断を尊重してくれる人は少ないしね。とにかく僕から見れば小泉首相は、市場重視の体裁だけ整えようとして、日本社会の安定と実体経済を犠牲にしながら、それでもネオリベ・構造改革推進者・(数字上の)景気回復という「記号」だけは手にした。誰もその実質を信じていないけど、やった本人があとで強弁するための体裁だけは整った。そして、彼の目的はたんにそれだけだった。その意味で、小泉純一郎はまことに彼らしい政権運営をしてきたと思うよ。呆れるほどに。

……誰だい?まるで粉飾決算だとか言っている人は。僕はそこまでは言わないよ。

あと、今日は深入りしないけど、彼が拙速に皇室典範を改正して皇室の出自制度を不安定化し、ひいては日本のエスタブリッシュメント社会の根幹に致命傷を与えるというミレニアム級の失政をやりかけたことも忘れてはいけないね。まあ、当面の危難は去ったけど、そのヒヤヒヤ感はまだ払拭しきれていない。だいいち、皇統存続の危機というおおもとの問題が解決したわけではないから、この先いつ第二の小泉が出ないとも限らない。

さて、何がともあれ小泉純一郎の総裁任期はもう終わり。あと一週間もすれば、小泉内閣は総辞職し、安倍晋三内閣が誕生するだろう。そして小泉純一郎は、思いつきで広告コピーのような文句を口にしては悦に入り、攻められれば強弁して逃げるというもとどおりの小泉純一郎に戻る。天下太平事もなし……というわけにはいかないだろうなあ、残念ながら。

安倍さんがどういう首相になるのかはわからない。若いだけに、判断の基になる資料が少なすぎるからね。せいぜい、やたら妙に勇ましいことを言っちゃう人だくらいの印象しかない。しかしまあ、結果がわかりきっているだけに、明晩ニュースを見るのが気が重いことは確かだね、とりあえず。

やれやれ、また暗い話をしてしまった。
せめて今夜は、強い酒でも飲んで、ぐっすり寝よう。

それでは Good night.

◎参考:フリーターが語る渡り奉公人事情
http://blog.goo.ne.jp/egrettasacra


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2006-09-16

「森のバターライス」@マウンテン

Good evening. 嵐が近づいているね。

さて、今宵は暗い話はナシにして、グルメな話題にしようか。
新しく "foods" の label を貼っておこう。

ところで、「マウンテン」のこと、知ってるかい?まあ、全国的に有名だから、ここにいる人は大概知っているだろうけど、知らない人がいるかもしれないから紹介しておくね。

「マウンテン」は、英語で「山」という意味だけど、この言葉はある地方では、とある霊峰をさす隠語として使われているんだ。峻険さと富士山の倍近い標高で知られるこの岩山は、その道を究めた剛の者の集う場所として、中国・崑崙山脈と並び評される山なんだ。この「マウンテン」を征服した者は、人智を越えた試練をくぐり抜けた勇者として、畏敬の念を集めることになる。しかし、その山道は険しく、熟練の登山者をしても命を落とす者が後を絶たないほどなんだ。

………ごめんなさい。嘘です。

本当は、名古屋市昭和区にある、実在の喫茶店の名前だよ。さっきも言ったとおり、全国的に有名な店で、他地域からの来店者も多い。ただ、喫茶店といっても、普通にお茶をして帰る人はほとんどいないだろうね。ここの特徴は、ピラフとスパゲティの二系統を中心とした食事メニューにある。それが有名なんだ。どういうことで有名なのかというと、それは、圧倒的な量と、特異なメニューの数々だ。

まあ、詳しいことは、Googleあたりで「マウンテン」と打ち込んで検索すれば、たぶんトップ近くにはこの店のことを書いたサイトが並ぶと思うから、そっちを参照してもらうことにして、今宵は僕が先頃ここに足を運んだときのレポートということにしよう。

その晩、僕は久しぶりにこの店を訪れた。週末だったから、いろいろな客で混んでいたな。大学が集中している地区だから、ほとんどは学生のグループで、みんなでワイワイ言いながらバケツをひっくり返したようなかき氷まがまがしい色彩の甘口スバ群を頬張ったり、携帯カメラで写したりしていたね。

だから、坐る場所が見つからないかと思ったんだけど、一番奥に何とかひとつテーブルが空いていた。隣のテーブルでは、あのマウンテンのメニュー群がかすんで見えるほど恰幅のいい3人組がかき氷をつついていたよ。すごい光景だったね。

それはともかく、僕が注文したのは「森のバターライス」。
こちらの写真をみて御覧。多量の福神漬けと白い粒、そして右端の溶けたメロンのようなものが目に入ると思う。白い粒はニンニクだ。粒でゴロンと入っているところがいかにも豪快だね。ほかにはタマネギとエビ玉が入っていて、スパイス等で味付けされている。ところで、わかりにくいかもしれないけど、このピラフ、うすい緑色をしているんだ。もうひとつ断っておくと、これ、写真で見ると普通の大きさに見えるかもしれないけど、実際はとても大きい。この下に写っている皿は、自動車のハンドルくらいの大きさがあるんだ。

さて、このメニューのポイントはこの「溶けたメロンのようなもの」なんだけど、これ、何だと思う?ヒントは名前。

よく勘違いしている人がいるんだけど、このメニューは「森の・バターライス」ではなくて「森のバター・ライス」なんだ。そこをわきまえないと、「何が『森の』なんだ」と早とちりをして、挙げ句「色が緑がかっているから森なのか」などと、珍奇な説をぶちあげてしまうことになる。じじつ、そういうことを書いているサイトもあるからね。

もうわかったでしょう?そう。このメニューの主役はアボカドだ。

写真からわかるとおり、この「森のバターライス」にはアボカドの大きな切れ端が混ざっている。切れ端ばかりじゃない。ご飯がすでにうすい緑色をしているように、全体にまんべんなく混ざってもいる。もちろんホットだ。アボカドをホットで食べたことのない人や、アボカドの青臭さが堪えられないという人は、まず避けた方がいいだろうね。しかし、その条件をクリアできる人は、この神秘のメニューに近づくことを許される。

実は、例のアボカド臭ささえ気にしないならば、この「森のバターライス」、意外といけるんだ。アボカドは「森のバター」と呼ばれているように、脂肪分(そのほとんどは不飽和脂肪酸)が豊富な果物だ。そのせいか、ピラフに混じって出てくると、確かに味がまろやかになっているんだ、これが。この不思議さがマウンテン・マジックだね。霊峰の名は伊達ではない。

もちろん僕は完食したよ。待ち時間でゆっくり読書もできたし、無事「登頂」を果たして今回も満腹。言うことはないね。

因みに、この店でメニューを完食することを、常連は「登頂」というんだ。逆に、残してしまうことを「遭難」という。僕はほとんど「登頂」しているけど、タコスピラフだけは「遭難」してしまった。いつかリベンジしよう。

ところで、マウンテンのメニュー群は本当に半端な量ではないから、行こうと思っている人は胃を丈夫に保っておこうね。

それじゃ、食欲の秋を待ち望んで。 Good night.


◎参考1:喫茶マウンテン公式Blog
http://kissamountain.blog61.fc2.com/

◎参考2:喫茶マウンテン/Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/喫茶マウンテン

Heineken


今宵、僕のグラスを満たすのはハイネケン。銘柄別に見るなら、たぶん一年で一番、僕の喉を通るビールだろう。

少し前だったら、カールスバーグがその地位に近いところにあったのだが、今年3月にサントリーがライセンス生産・販売から撤退して以後、少し手に入りにくくなってしまった。当時、行きつけのディスカウントショップでは缶入りのカールスバーグが一個168円で最安価、箱買いしてもワンランク安かった。しかも美味だったため、僕は好んで飲んでいた。でも、そのときでさえ、ハイネケンはNo.1の座を譲らなかった。

その理由は、やはり味だ。さっぱり具合はバドワイザーやスーパードライに引けをとらない。しかし、これら少し色の薄いビールと比較して、キレイな黄金色をしたハイネケンは味そのものがしっかり付いている。そこは、のどごしと味のキレばかりが重視され、それ以外は割に淡泊な印象のあるスーパードライなどとは特に違うところだ。そして、バドワイザーがひたすら軽快なさっぱり感をアピールする一方で、ハイネケンには麦芽・ホップの風味が強烈に迫ってくる、深くて強い味わいがある。パンチが効いているのだ。そして、そういった要素すべてが内側でケンカすることなく調和している。総合力があるビールなのである。1864年の創業時、ジェラルド・ハイネケンの目標はただ「最高のビールを醸造すること」だったというが、彼のそうした姿勢は品質と製造技術への徹底したこだわりを生み、世界中で大量生産される今日でもこれほどの完成度を示しているのだろう。それは舌を通して語りかけてくるのだから、自然、説得力があるのだ。

しかもこの実力派、安い。例のショップでは189円。さすがにかつてのカールスバーグには負けるが、それでも並み居る国産銘柄よりも20円近く安い。箱買いするとこの差は結構な差になってくる。値段が下がるとふと不安になってしまうところだが、ハイネケンの場合心配は要らないだろう。

ところで、ビールでも味わいを重視する僕は、あまり外で飲む機会を好まない。でも、時々飲む機会が訪れたとき、店選びのひとつの指標となっているのは、ハイネケンが置いてあるかどうかだったりする。だから、行き先の選択肢の中にハイネケン・ドラフト(飲食店でしか飲めない)を置いた店があるなら、迷わずそこを選ぶわけだ。といっても、つねに僕に場の主導権があるわけではないから、そういうときは、置いてない店に行く羽目になる。なかにはビールを一銘柄しか置いていない店なんかがあって、運悪くそういうのに当たるとテンションが下がる。それでも行くことは行くが、あまり喜んで参加してはいない。僕にとってビールは、酔うためでなく、味わうためにあるのだから。

さて、一番飲むとはいえ、少し値の張る瓶入りのハイネケンはさすがにそうしょっちゅう飲むわけではない。ふだんは安い缶入りなのだ。中身は同じはずなのだが、瓶だと気分が違う。ハイネケン瓶はデザインもぴかいちで、飲んだ後もインテリアに残しておきたいくらいの雰囲気がある。今宵はこの雰囲気も一緒に味わうとしよう。

それにしても、またグリーンボトルになってしまった。狙っているわけではないのに。


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2006-09-13

シエラレオネのダイヤモンド/ストライキ

Good evening. 静かな雨の夜だね。

さて、きのう暗い話はやめようと言ったばかりなのに、今日もこんな話。ごめんね。


シエラレオネで違法タクシーの大規模な取締りが実施され、不適切なタイヤの使用、ライトの故障、無免許営業などを理由に100人におよぶ運転手が逮捕された。11日、運転手たちはこれに抗議してストライキを行い、その結果、首都は静まりかえった。(Exciteニュース/ロイター)


このニュースのポイントは、警察のやっていることがほとんど組織的な別件逮捕だということ。ちょっと大胆な言い方だけどね。じっさい、「不適切なタイヤの使用、ライトの故障」なんかで逮捕しているんだから。検挙じゃないよ。逮捕だよ。ライトの故障で牢屋に入れられるってことだ。この点は重要だね。でないと、職場とかで「自業自得だろw 」とか何とか的はずれなことを言って、インテリの同僚に冷たい目で笑われる、なんていう痛々しいことになりかねないよ。気をつけて。

閑話休題。この件のポイントは別件逮捕だってことだけど、そうすると、事はたんなる大規模な刑事事件ということでは済まなくなりそうだ。それぞれ独立した陣営同士の社会的対立とでも言った方がいい。そうなると、両者の言い分を確認しておかないといけないね。

警官はこう言っている。
「全部でおよそ90件のひき逃げがフリータウンの警察に通報されています。歩行者にぶつかるだけでなく、高速道路で国有建築にぶつかる運転手の例も報告されています」
違法タクシーをシエラレオネの慢性的な交通危険の原因とみなしているらしい。警官らしい、職務上の主張だね。

一方、ストライキを行った輸送ドライバー組合の主張はこう。
「警察は運転手たちが賄賂の支払いを拒否すると、こうしたやりかたに出るのです」
こちらは、警察の不正への抗議ということらしいね。

こういう状況を見るとき、ナイーヴな人は、「○○の方は××というつもりだから、ごまかしている/嘘をついている」という風に思いがちだ。そういう発想が高じていくと陰謀説というやつに行き着くんだろうけど、そこまで行かなくても主体を分けてものを考えることが簡単でない以上、こういう一面的なものの見方への誘惑はいつでも僕たちを襲う。

でも、残念ながら、それは見る人がそう思いたいだけで、事実はおおかた違う。多分、どちらもある程度までは本気で、言ったとおりのことを思っているし、一面の真実も突いている。ただし、すべては見えていない。事象をめぐる当事者としての欲望/感情が、視界を歪めるんだ。

警官には、多少強引なことをしてでも交通秩序を確立すべしという使命感=欲望がある。シエラレオネの交通秩序はヒドイ。それこそ、今すぐ何とかしなきゃと警官を焦らせるほどにね。そして、その焦りが、別件逮捕まがいの強引な捜査となって表れる。まあ、よくある話さ。

ところで、ドライバー側は、商売のことを考えている。彼らは、劣悪な労働条件のもと、ボロボロの車でボロボロの道を、乗客を満載して走らなければならない。すべてがいっぱいいっぱい。しかも給料は安く、社会保障もない。そういう過度のストレスと葛藤は、もちろん、勤務態度に反映される。つまり、ごまかしや手抜き、やっつけ仕事、等々。これもじつによくある話。

そういう人たちがぶつかりあうとどうなるか。当然、どちらの側にもフトドキ者はいるわけで、警察には賄賂を要求する者が、ドライバーには人を轢いて逃げる奴がいたりする。そして、そういう奴ほどインパクトがあるので、各陣営はフトドキ者に代表されることになってしまう。で、お互い相手のフトドキなイメージをあげつらい、批判する。結果、大衝突。それが今回の事件だ。……といっても、僕の勝手な推理だけど。

さて、いまフトドキ者の話をしたけど、こういう「フトドキ者」の話は、いわゆる途上国に関するニュースほど多く含まれているよね。警官がワイロを取るとか、商売人が法律を無視するとか、そういうのは最も陳腐な部類に入る話だろうね。要するに、綱紀粛正がなされていないってことなんだけど、どうしてだろう?なぜ、途上国では「フトドキ者」がちゃんと取り締まられていないのか?

簡単に言ってしまえば、「そこまでちゃんとやる余力がないから」ということになるだろうね。その国の「乱れ」は、貧困の、無力の証しってわけだ。ちゃんと社会政策をおこなってゆく財力や文化水準がこれらの国にあるなら、そもそももっと秩序があるはずだからね。

そして、貧困の原因は……。


シエラレオネはダイヤモンドの輸出国であるが、その大部分が密輸出される。南西部が最もダイヤモンドの埋葬量が多い地域である。その他ボーキサイトや金紅石の産出国でもある。農業では米、アブラヤシ、ラッカセイ、コーヒー、ココアなど。(Wikipediaより引用)


きのうは中南米の例を挙げたけど、アフリカ南西部にあるシエラレオネも似たような立場にある。というより、もっとひどい。この国は世界で最も平均寿命が短い国のひとつなんだ。その理由は、資源獲得競争を背景とした内戦と、そこに必然的に伴う隷属状況にある。

シエラレオネでは長年、内戦が行われてきた。その間この国では、僕らでいう小学生にあたるくらいの子供たちが反政府勢力に拉致されて少年兵や慰安婦(!)にされ、使い捨てられていたんだけど、内戦が終わったいまもその影響は深刻で、社会復帰できない子がたくさんいる。元慰安婦の少女なんか、生きるためそのまま売春婦になるしか仕方がない状況に追い込まれているんだ。そして、内戦とセットになっている構造的貧困は外貨不足に結びつき、違法な国際取引を誘発する。この国の場合、違法取引に供されるダイヤモンド鉱山でボロボロになるまで働かされる子供がいまでもたくさんいて、やはりしょっちゅう命を落としている。子供が極端にたくさん死んでいるんだから、この国の平均寿命が押し下げられるのも計算上当然というわけ。

カニエ・ウェストは、"Diamonds From Sierra Leone"のPVの冒頭部分で、こう言っている。


“We work in the diamond rivers...
from sunrise to sunset
under the watchful eyes of soldiers.
Every day we fear for our lives.
Some of us were enslaved by rebels
and forced to kill our own families for diamonds.
We are the children of the blood diamonds.
The blood diamonds...
The blood diamonds...”


いちいち訳さないし、昨日と同じことをくどくどと繰り返すつもりはないけど、一言だけ確認しておくなら、安価な資源を狙って彼らの内戦を焚きつけているのは、先進国だ。『EDEN』の14巻には、こういう台詞がある。


増え続ける人口を養う為に耕作地を広げ
豊かさを求め石油を掘り鉱山を掘り……
資源と土地をめぐる争いが続く

民族や人種間の憎悪の根底には資源と土地の奪い合いがある
資源が欲しい欧米はそれをコントロール出来ると信じ
時に焚き付け時に押さえ込み漁夫の利を得ようとした結果……

アフリカは多数の”失敗国家”を生んでしまった


いまやグローバルに拡がる世界資本主義という怪物が、かつての列強と植民地の関係を固定化し、富を際限なく前者に流入させる代わりにあらゆる「困った問題」を後者に輸出する。ポストコロニアルスタディーズあたりの定番の図式だけど、アフリカの場合、アメリカひとりを悪者にすればいいってわけではなく、問題は複雑だ。言ってみれば、さまざまな陣営の思惑が相互に不透明なまま摩擦を起こし、その結果貧困や付随する問題をこの大陸に流入させているというわけだね。

そして、もともと宗主国だった欧米はいまごろになってやっと問題に気付きはじめたわけだけれど、関係が複雑になりすぎた結果、手に負えなくなってしまった。アメリカなどの欧米先進国ではPKF活動や救貧ボランティアなどが活発なわけだけれど、これは実効性を狙った施策というよりは、搾取をうすうす自覚した人々の罪悪感のあらわれと言った方がよさそうだ。

それでも、罪の自覚が明確な分だけ、僕たちよりマシなのかも。なにしろ、善人にも悪人にもなりきれない僕たち日本人は、この罪を正視するには弱すぎるためか、二通りの反応しかできない。「まあかわいそう、なんとかしようよ」という、声だけ立派な偽善的態度。そして、「あいつらは勝手に無力なだけなんだ、知ったことか」という、不必要なほど勇ましい虚勢を張る偽悪的態度。大人ぶりたいお年頃のおませさんみたいだね。優等生タイプと不良タイプの違いこそあるけれど、根本的なところは変わらない。これは、シエラレオネの人たちとは違う、もうひとつの「弱さ」だ。せめて、「俺たちは血塗られたダイヤモンド(=富)を吸い上げて生きているんだ」と自分で認められる程度には、この弱さを鍛えて克服したいものだけれど。

……さて、夜も更けてきたね。シエラレオネのニュースを見たお陰で、またこういう話になってしまったよ。闇夜に暗い話をするのもそれなりに乙なものだけど、そろそろ寝ようか。

じゃあ、僕たちの弱さの克服を祈念して。 Good night.


◎参考:ダイアモンド〜第1・2・3・終幕〜/In My Mind
http://blog.alc.co.jp/d/2000790?theme=1

◎参考2:シエラレオネの現状報告/南山国際高等学校・中学校(2006.9.19リンク追加)
http://www.nanzan-kokusai.ed.jp/life/terada.html

◎参考3:ダイヤモンドが煽るアフリカの殺戮/田中宇(2006.9.19リンク追加)
http://tanakanews.com/A0203diamond.htm

(9月19日、新リンク追加に伴う若干の加筆をしました。)

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2006-09-12

もうひとつの「9.11」

Good evening. 静かな夜だね。

今日は9月11日。「9.11」の日だね。

「9.11」といえば、現在ではちょうど5年前の、世界貿易センターと米国防総省に航空機が突っ込んだ、いわゆる「同時多発テロ」をさすことになっているね。でも、南米に行くと、ちょっと事情が違ってくる。

どういうことかというと、1973年の9月11日には、南米の、特にチリの人たちにとって忘れられない「忌まわしい記憶」が刻まれた日でもあるんだ。まあ、僕自身、先刻余丁町散人の指摘を目にするまで失念していたのだから、あまり偉そうなことも言えないんだけど。

え、もったいぶるなって?そりゃそうだ。

1973年の9月11日、チリで何があったか?この日、サルバドール・アジェンデ大統領が殺されたんだ。アウグスト・ピノチェト将軍率いる軍事クーデターでね。そして、この軍事クーデターは成功し、ピノチェトは大統領に就任した。以後、ピノチェトは、1990年まで実に16年近く、チリの国家元首であり続けた。

ところで、軍事クーデターによって成立した政権がどういった性質のものになるか、これにはパターンのようなものがある。まあ、自然科学のような確実性を持った法則ってわけではなく、せいぜい蓋然性があるというに止まるんだけど、とにかく、軍事クーデターが導く政権はだいたい決まっている。軍事独裁政権だ。

考えてみれば当たり前だよね。ある政権が国をまとめるためには、国民が自発的に従うためのきっかけ(自発的服従の契機)がなければならない。つまり、革命政権が国民に正統性を認められることがなければ、そもそも国民は言うことを聞いてくれないから、結局反革命勢力(旧勢力や対立組織など)に政権を再び覆される危険性が高まる。だから、新政権は何らかのかたちで国民の服従を勝ち取る必要があるんだけど、軍事力にものを言わせて打ち立てた政権には、何があるだろうか。軍事力しかないよね。

ともあれ、チリのピノチェト政権は歴史の例に漏れず、軍事独裁政権となった。その長き支配の下にあったチリでは、ピノチェトが政権を追われる1990年に至るまで、数千人にも及ぶ政治犯が処刑された。これも例に漏れない。

ところで、軍事独裁政権というのは、政治的基盤が強くない。なにしろ、国民からすれば、この政権に服従するのに軍事力以外の理由があるわけじゃないから。中世に南仏カタリ派の王国を滅ぼした北仏の諸侯たち(カペー王朝が中心)には、カトリック教会のお墨付きという宗教的権威があった。中国の革命には、湯武放伐論に支えられた易姓革命の思想があった。これらの勢力も旧勢力に対して現代のクーデター顔負けの残酷なことをしているんだけど、その後国土は安定している。しっかりした自発的服従の契機が機能していたからだ。でも、軍事独裁政権にはそういう「信仰」といえるほどの権威がない。力しかない。だから、力の源泉がなくなれば、倒れてしまう。

そういうわけで、ピノチェトが独裁者の地位に就いていられたのも、あるビッグな力の源泉があったからなんだね。それは何だろうか?

とても簡単。アメリカだね。そもそも軍事クーデターってのは、国の正統権力を相手に闘うわけだから、外国のバックアップなどがなければ成功しにくい。兵站線を押さえられたらおしまいだからね。ピノチェトの場合、アメリカCIAの支援を受けていた。もっといえば、そもそもアジェンデ政権が倒されたこと自体、アメリカの意向によるところが大きいんだ。

アジェンデ政権というのは、じつは史上初の、選挙によって選ばれ成立した社会主義政権だったんだ。時は米ソ冷戦の真っ只中。アメリカはこれをとても恐れた。だから、CIAの工作によりこれを倒したというわけだ。このことは、その後機密扱いから外されたCIAの公式文書によっても明らかになっているくらいで、国際政治をウォッチしている人間ならいまや誰でも知っていることだね。かくてアメリカの望み通り、ピノチェトのクーデターは成功した。ところが、やったあとやりっぱなしにするのもアメリカらしいところで、ピノチェトが大統領になり、明らかに圧政をしはじめたときになっても、何もしなかった。できなかったんだ。冷戦があったから。結局、冷戦が終結する1990年まで、アメリカはピノチェト政権を黙認していた。

ところが、皮肉なことに、冷戦終結がピノチェトとアメリカの縁の切れ目だった。結局彼は、アメリカに見放されるかたちで大統領を辞任した。


現在、ピノチェトに対しては、「軍事独裁政権を敷いた冷酷非情な独裁者」と言う見方が大勢を占める。だが、一方では「アジェンデと並ぶアメリカの犠牲者」と言う同情的な見方もある。ピノチェト失脚後、アメリカとチリとの関係は悪化しており、チリ国内外には、「アメリカがチリをダメにした」「ピノチェトはアメリカの捨て駒であり、被害者だった」と、かつてピノチェト政権を影ながら支持したアメリカの責任を問う声も多く出ている。(Wikipediaより引用)

結局、アメリカの意向にただ翻弄されたチリの治安は荒れに荒れ、経済も低迷しつづけた。いや、チリだけじゃない。サンディニスタ左派政権と対立関係にあったソモサ派を支援して慢性的な内戦を導いた中米ニカラグアの例を筆頭に、アメリカは中南米諸国家に対する主権無視の内政干渉を恒常的に繰り返し、ラテン・アメリカの構造的貧困をプロデュースしつづけている。まあ、あとについてはノーム・チョムスキー先生の出る幕としようか。

ところで、ここまでチリの来た道を辿ってみて、なにか気付くことはないかな?

そう、似てるよね。イラクに。

そもそもフセインだって、反ホメイニのためアメリカが支援した軍人だった。彼にイラク一国を与えてホメイニ率いるイランと戦わせた(イラン・イラク戦争:1980〜88)んだけど、フセインが言うことを聞かなくなるや、難癖を付けて潰してしまった。やることは一緒ってわけだ。イラク戦争をさして、「米州でやっていたことを中東に輸出しただけ」というのは、事情を知っている人が皆認めるところ。反共防波堤という目的がなくなれば、資源確保、ドル圏防衛。こうした大国の都合に翻弄されつづけ疲弊し尽くした中南米は、グローバル化の最たる犠牲者といえる。僕はいたって穏健な共和主義者にすぎないけれど、こういう事情を見聞きすると、やっぱり「搾取」ってあるんだなあとつい思ってしまうね。

ところで、中南米といえば麻薬の蔓延だけど、これもじつはいま言った事情に深く関わっている。というのも、中南米は構造的に、アメリカによって資源を安く買いたたかれる立場にあるから、外貨が慢性的に不足している。工業は先進国にかなわないし、アンデスのやせた土地では農業もままならない。よって、唯一栽培可能な作物・コカに頼って外貨を稼ぐことになるってわけだ。ペルーで毛沢東主義過激派センデロ=ルミノソが一時期力を持ったのは、彼らのマオイズムによる農地開放路線が、コカ栽培に依存する貧農層の支持を集めたためとも言われている。そして、田舎はゲリラの実行支配地帯でコカインの原料が栽培され、都市に行けば田舎でできたコカインを餌にシンジケートに隷従させられる売春婦で盛況という何ともアレな世界ができあがってしまった。もちろんそのコカインは貴重な外貨獲得の手段だから、アメリカをはじめとした世界中に輸出される。こうして成立した麻薬の南米ルートは、1990年代、世界の闇の流通路を大きく変革したと言われているんだ。

…まあ、このあたりの詳しい事情は、僕の好きな遠藤浩輝『EDEN-It's an Endless World!』でも読んでみるといいよ。こちらの世界は2112年、本来ならドラえもんが生まれるはずの年だけど、『EDEN』が描く南米はなまなましく現代的だ。

さて、夜更けに暗い話をしてしまったけど、じつは本当に僕を暗澹たる気分にさせるのは、僕たちに彼らを「かわいそう」と言う資格がないということなんだ。だって僕たちは、あのアメリカの尻馬に乗ることによってたらふく食べているんだから。

…ああ、こんな話をしている間に、「9.11」が終わってしまった。マーヴィン・ゲイの"What's going on"を流しっぱなしにしていたせいだな。時間を忘れてしまった。

次回こそ明るい話題にしよう。あまりこういうことを書くと、僕が左翼社会主義者か何かなのではないかと疑われてしまう。あくまで僕は公民的共和主義の可能性に賭ける穏健な青年にすぎないってのに。

じゃあ、この素敵でくそったれな世界を想って、眠るとしよう。 Good night!

P.S.
余丁町散人様、いつも楽しく読ませていただいております。しかし、ピノチェト政権について「米国型自由主義経済システムの導入でチリはみるみる良くなるはず」とされたり、実際の経済低迷の原因を「いったん社会主義化されてしまうと、その体質が染みついてしまうのだ」と断じておられますが、経済的観点から言えている部分はあるものの、やはり当国の政治情勢やポストコロニアルな状況も考慮しなければ不十分なのではないでしょうか。以上、若輩者が失礼しました。

◎参考1:捨てられた独裁者ピノチェト/田中宇
http://tanakanews.com/a0309pinochet.htm

◎参考2:ピノチェト事件を追う(上)スペイン当局による身柄引き渡し要請、英国からの帰国まで
http://www.chunambei.co.jp/pinochet-1.html

◎参考3:ピノチェト事件を追う(下)=チリ帰国後のピノチェト動向:2000年3月〜=
http://www.chunambei.co.jp/pinochet.html

◎参考4:南米紀行/らくだジャーナル
http://www.rakuda-j.net/tabi/nanbei/index.htm

◎参考5:The Pinochet File/The National Security Archive --- The George Washington University(2006.10.8リンク追加)
http://www.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB110/

 iTunes Music Store(Japan)

2006-09-10

Kronenbourg 1664

隣県で入手したクローネンブルグ。フランスを代表するビールで、世界でもトップクラスの売り上げを誇っている。日本でも比較的入手しやすいそうだが、ハイネケン等のように日本のメーカーがライセンス生産しているわけではないので、そういうものに較べるとさすがに見掛ける頻度は落ちる。

先程フランス代表と言ったけど、クローネンブルグが生産されているのはあのアルザス地方。


アルザス(アルザス語・ドイツ語:Elsass,フランス語・英語:Alsace,ラテン語:Alisatia)は、フランス北東部に存在する地方であり、住民の大部分はドイツ人の一部であるアレマン人だといわれ、130万人の住民がドイツ語の方言であるアルザス語(Elsässisch, alsacien, Alsatian)を話しており、アルザスはドイツ文化において重要な役割を果たしてきた。王制時代は「ブルボンに仕えるドイツ人」と呼ばれていた。首府はストラスブール(ドイツ語ではシュトラースブルク)。(Wikipediaより引用)

アルザス地方といえば、近代を通じてフランスとドイツが領有を争った、独仏対立を象徴する地域としても知られている。というのも、この地方はドイツとフランスの接触地帯として軍事的に重要な位置にあったのに加え、鉄鋼、石炭、カリウムなどの鉱産資源が豊富だったからだ。

中世を通じて神聖ローマ帝国(ドイツ)に属していたアルザスは、同帝国を徹底的に疲弊させ、後の分裂時代へと扉を開いた三十年戦争の講和(ウェストファリア条約:1648)により、フランス領となる。その後、17、8世紀を通じてフランスに属し、フランス革命以後はフランス同化政策を推進されたりもしたが、1870〜71年の普仏戦争でプロイセン軍が大勝利をおさめた結果、フランクフルト講和条約でドイツ領となる。このときプロイセンは、アルザス領有の引き替えとして、フランスに50億フランもの賠償金を支払っているが、どうやらドイツにとってもそれだけの価値はあったらしい。普仏戦争を契機に悲願の国内統一を果たしたプロイセン・ドイツは、宰相ビスマルクの辣腕により国内の近代化を推し進めていくのだが、鉱産資源の豊かなアルザス・ロレーヌ地方は、ドイツ工業の飛躍的発展に多大な貢献を果たすことになった。そしてそれは、第一次世界大戦で大敗し、ふたたびアルザス・ロレーヌ両地方の領有権を失うまで続くことになる。いわばアルザスは、大国ドイツの浮沈と運命をともにしてきたともいえるわけだ。

そして、現在アルザスはフランス領。現在でもドイツ文化の色彩の濃いアルザス地方だが、そこで生産されているクローネンブルグはいまやフランスを代表する味覚のひとつとなった。その味は、やはりホップの香りが鮮やかに漂い、さっぱりしているが、しっかりと味が付いている印象。クローネンブルグの製造手法にはドイツの影響が大幅に入っているという話だが、実際に飲んでみると、この国際的銘柄はかならずしもドイツビールの変種という枠組みに還元できるわけではないようだ。じじつ、僕の好きな銘柄のドイツビール、デア・レーベンブロイと飲み比べてみると、味の傾向がちょっと違うことがよくわかる。バドワイザーとは違った飲みやすさだ。

大陸を代表する二大強国が領有を争ったアルザス地方は、その領有とともにそれぞれの国に近代化という名の繁栄をもたらしてきた。しかし、それも今は昔。両国が慢性的な対立をやめて久しい現在、地域を代表するビールは、国際的銘柄として世界中で最も親しまれるビールとなり、僕のグラスを満たしている。

それはともかく、どうやら僕は、グリーンのエンボス入りボトルに弱いらしい。

◎参考:kronenbourg/ビール友の会
http://www.office-soleil.com/beer/enjoy/euro/krone.html