2006-10-11

「根こぎ」にされたリベラリズム ------ ロールズと井上達夫の狭間で

後期ロールズが陥った「政治的リベラリズム」も、それを批判しロールズ以上にロールズらしいリベラリズム像を模索する井上達夫の正義基底的なリベラリズムも、それぞれがそれぞれの陥穽を抱えている。その両方を同時に批判し、生かしつつ乗り越える思想的ポテンシャルは、シモーヌ・ヴェイユの内にしか埋まっていないのではないか。

と、『重力と恩寵』を読みながら思った。

シモーヌ・ヴェーユ著作集〈3〉重力と恩寵―救われたヴェネチアシモーヌ・ヴェーユ著作集〈3〉重力と恩寵―救われたヴェネチア
シモーヌ ヴェーユ 橋本 一明 Simone Weil

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リベラリズムからアウラを奪った「政治的リベラリズム」は、正義の特殊構想を公共的討議に向けて開きながら、なおかつその討議空間を特権化することを拒否することにより、正義の一般構想が新たなる(そして最も悪質な)正義の特殊構想に身を堕する危険を回避しようとする。リベラリズムを純粋に「地上のもの」にしようというのだ。だが、この「リベラリズムの脱哲学化」を推し進めることは、すでにある討議空間そのものにたいする批判の契機を奪うことにもなり、結局、討議空間がただの「強者連合」に堕してしまう危険を内包してしまうことになる。この点を批判する井上達夫は、批判の原理としての「哲学的リベラリズム」の復権を唱え、討議空間の普遍的性質を維持すべしとする。しかし、こうして再構築され再定義されたリベラリズムの哲学は、まさに「定義」されているがゆえに過度に具体的な内容を抱えすぎる虞をもつ、具象の罠を抱えるものであり、前者よりも動的ではあるものの、やはり「特殊が普遍を騙る」危険を拭いきれていない。それは水が高きより低きに流れるが如く、重力に引かれ、やがて普遍とは違うものを帰結してしまうだろう。

やはり普遍的なもの、無限なるものという「恩寵」は、語られた瞬間に僕たちの手をこぼれていってしまうものらしい。望まれた恩寵は恩寵ではないというわけだ。とするならば、公共的討議空間の普遍性を「定義」する試みは、ついに堕落の運命から逃れ去ることを許されないだろう。やはり公共的討議やリベラリズムというものは、いつでも「語られざるもの」である必要がある。その点に勘づいたことに関しては、さすがロールズというべきだろうね。しかし、井上の指摘にも一理あって、メタ討議的視点を奪われた公共的討議の場は、それじたいをチェックする視点がない。すると、井上のいうとおり、そこは現状の「強者連合」を追認するだけの、弱者の参入をあらかじめ排除したものに堕してしまう、つまり「低きに流れる」危険性を孕むことになる。やはり重力に引かれているのだ。

可能なるリベラリズムというものがあるとするならば、あるいは真に普遍的な公共的討議空間というものがありうるとするならば、それは「根こぎ」にされたものとして粛々と実行され続けるものでしかないだろう。そして、そこに至る道も恐らく、現実の「特殊な」政治構想を「根こぎ」にし続けることによって見出されるよりないのだ。その在処は、運命の女神nornsだけが知っている。

◎参照論文:井上達夫「リベラリズムの再定義」、『思想』2004年9月25日号P.6~28、岩波書店(申し訳ありませんが、左記論文は図書館等でお探し下さい)

◎参考文献:本文で紹介した本の別訳
重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄
シモーヌ ヴェイユ Simone Weil 田辺 保

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