2006-09-10

1000年の失政?

Good evening. 蛼たちの求愛の声も聞こえはじめたね。

今日は、政治の話でもしてみようか。政治のもつリズムというか、時間感覚の話。

あるひとつの政策が成功したか失敗したかってことは、重要なことだよね。政府が経済政策を失敗したら僕たちは生活の危機に直面するし、治安政策を失敗された日には怖くて表も歩けなくなってしまう。だから、有権者たるもの、時の政府が執り行う政策の正否はチェックしておかなくちゃならないわけだ。

ところで、政策の正否が判明する時点というのは、実行されている限り当然存在するわけだけど、それは何時になるんだろうか。勿論、これは政策によって違う。詳しいことは大学の政策学の講義にでも譲るけど、こちらの記憶を確かにしておくためにも、簡単におさらいしておこうか。たとえば政府の景気刺激策ということになったら、早ければその日のうちに、長くても数年のうちには判明するよね。政府発表の時点で株価はすでに変動するだろうから、その限りでは発表された瞬間にその政策の「点数」は付いていることになる。でも、その効果となったら、さすがにさらに月日が経たなければならない。そして、国内の各企業の業績が判明し、日銀の短観でも出るようになってくると、だいたいの正否は云々されるようになってくる。それが四半期毎だとすると、三ヶ月単位かな。5年、10年と経てば、もう歴史上の事実だね。

もちろん、これは巷のディレッタントの勝手な判断に過ぎず、専門的な議論になればもう少し違うかもしれないよ。それに関しては今度、地方官吏の友人にでも訊くとしよう。でもまあ、大まかに言うならば、景気刺激策のリズムは、即日〜10年といった感覚でリズムが刻まれているという風に、僕たちは認識することができるというくらいのことは言えそうだ。他にもいろいろな政策があるけれど、大概のやつはこんな風に数年単位でだいたいの結果は得られるものなんじゃないかな。だいいち、そうでなければ選挙に間に合わないから、僕たち有権者は困ってしまう。チェックできなくなってしまうからね。

もちろん、長期的な歴史的意義を問うとかいうことにでもなれば10年なんてものじゃ済まないわけだけれど、政策そのものの成否を問う場合、やっぱり10年は超えないかな?もちろん、産業振興策とか都市政策だとか、長期的なビジョンに基づいて組まれる政策となれば話は別だろうけど、それにしたって10年もすればなんとなく見えてくるものだし、あまり長くなっても担当者が担当しきれないから、せいぜい数十年までかな。

そうなると、政策ってものの基本のリズムは5年、10年単位ってところになりそうだね。五カ年計画っていうくらいだし。となると、それを大幅に超越したストロークを持つ政策ってのは、ちょっと考えにくくなってくる。マジメにそういう時間単位で云々される政治なんて、それこそマルクス主義の革命のビジョンくらいじゃない?でもまあ、今日は革命家の話をしたいわけではないから、それは措いておくことにしよう。だいいち、そうなるとすでに「政策」とは言わない気がするからね。

さて、やっと本題。

http://www.excite.co.jp/News/society/20060906135108/Kyodo_20060906a448010s20060906135108.html

とりあえず、おめでとうございます。僕もホッとしました。二つの意味で。
ひとつは、紀子妃殿下と親王殿下のお体の案配について。
もうひとつは、国のなりたちにかかわる問題。

何でわざわざこんなことを断るのかというと、すでにこの時点で論点をごっちゃにする人がいるからね。そういう人とはとこしえに近からざるものであれかしと祈念せずにいられないところだけれど、一応言っておかないと。

http://www.j-cast.com/2006/09/07002875.html
http://www.j-cast.com/2006/09/08002901.html

とりあえず、新しい生命の誕生を祝うと言うことと、国の行く末を考えることは別問題なわけ。同じ事象を言っているのだとしてもね。面倒だから、これは当然の前提ということにして話を進めよう。

このニュースは、皇族を敬愛する一個人としてめでたい知らせという意味も勿論あって、その意味でいうならば親王殿下が男でも女でもめでたいことに変わりはないんだけれど、それはまあ別の話。視点を変えよう。このニュースを「皇室典範改正の必要性」という国策・政策的な視点から眺めてみた場合、親王殿下が男性だということは非常に重要な意味を持つ。改正しなきゃならない切迫した必要性がなくなるからね。だから僕は安心した。

どういうことかって?じゃあ、まとめて言うよ。

女系天皇を認める場合、天皇家は双系出自の家族システムとなるため、天皇家の「家」としての維持が危殆に瀕することになる。それを回避するためには、これまでと逆に男系天皇を廃止するか、不自然なアクロバットをしなければならなくなる。しかし、前者は天皇の定義そのものの改変を伴うものになるから、別王朝建立の論理に、つまり一種の革命思想になる。そのうえ、天皇家の親族制度は日本人の親族意識の鏡だから、そこで女系単系あるいは双系なんていう大変革を起こしたら、日本人の親族制度にも革命を起こすことになりかねない。そんなことは現実的なことじゃない。だから、今回は下手に制度をいじらないでおいた方がいい。それなのに小泉純一郎は、まさしく「下手に」制度をいじろうとした。しかし、親王殿下ご誕生によって、その話は流れた。だから、とりあえずホッとした。

前段を読んで「意味がわからない」と思う人、結構いるだろうね。そう、一般の日本人にはわからない。「女系容認」ということがいかなる意味を持っているか、普通の日本人には理解できていない。男女同権なんていうまるで関係ない話と混同しているくらいだからね。男系社会で「女系容認」なんて、人類学的にはビックリするような事を言っているんだけど、その意味をちゃんと理解できるくらいの教養を身につけるには、大学で文化人類学を勉強しておかなくちゃならないからね。実際、レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』、読んでちゃんと理解している人って少ないだろう?

別に大衆の無知を嘲笑いたいわけじゃないよ。知らなくたって仕方ないことなんだから。実際、首相ですら知らないことだからね。……知ってて言いだしたのなら、本当に頭がアレだと思うよ、あの人。

親族制度のメカニズムっていうのは、いうなれば僕たちの無意識の領域で動いているメカニズムなわけで、日常僕たちが意識することはないけれど、このシステムが動いていなかったら日常生活に支障を来してしまう、そういう種類のメカニズムなんだよね。そういう「無意識の領域で動いているメカニズム」に下手に手を出すとどうなるか。知りたかったら君のパソコンのシステムファイルをでたらめにいじってみるといいよ。その意味を身に染みて実感できる。

それはともかく、知らないのならばある意味、仕方がない。でも、歴史的には、「知らなかったから仕方なかった」では済まされないことというのがあるわけで、このケースがまさにそう。ここで冒頭の話と繋がってくるんだけど、要するに、現時点で「女系容認」をやらかしてしまった場合、数百年くらい経ってから失敗に気付くことになってしまうんだね。

端的に言おうか。男系の可能性を残したまま女系を容認してしまった場合、先祖を辿れなくなってしまう。どうでもいい家ならいいけどね。しかし、万世一系を掲げる天皇家の場合、非常にマズイことになる。

たとえば、Aという父親とBという母親から生まれたXという人の場合を考えてみよう。父系社会の場合、Xは父方の姓を名乗り、先祖を訊かれたときはAの系統を辿ることになる。母系社会の場合は、それが逆になるだけ。そこまではいいね。問題は双系出自社会の場合。これの場合、親族の系統を両方辿れるから、Xの一族はAの一族でもBの一族でもない、両方の一(?)族ということになってしまう。二つの家系に同時に属するわけだ。Xの子、孫……となると、さらにややこしくなる。そうなると、Xやその子孫たちは、誰の姓を名乗ればいいのやら。

こういうのを一個人多始祖って言うんだけど、こういう状態になった場合、「家族」ってのがどういうことになるか。簡単にいえば、系統がごちゃごちゃになってしまい、世代を越えた「一族の同一性」が保てなくなってしまうわけ。つまり、ひとつの親族集団の「死」が訪れるか、そうでなくてもその基盤は著しく脆弱になってしまう。それでなくても、天皇家には名字がないってのに。

勿論、地球上に実際に存在する双系社会ではちゃんと解決方法が用意されていて、そういうところでは父方か母方かどちらか一方を選択するようにしている場合が多いんだけど、天皇家でそれをやったらそれこそマズイよね。系統を恣意的に選択できるなんてことになったら、天皇家は持明院統/大覚寺統どころじゃない分裂状態になってしまう。

要するに、女系容認に踏み切った場合、日本の天皇家は最終的に分裂しすぎて意味がなくなるか、系統の混乱によって消滅してしまう。さて、ここで日本史の問題。天皇家が斯様に混乱した場合、日本社会はどんな状態になるか。……まあ、答え合わせの必要はないでしょう。

そして、その結果が現れるのは、世代が何代か下ったあとだから、早くて数百年後。そんなに後になってから現代の失政が判明するんだから恐ろしいね。そして、結果が現れた暁には、21世紀の日本人は世紀の大失政を行った世代ということになって世界史的な恥をさらしてしまうってわけだ。下手な話、「日本にトドメをさした世代」なんて言われたりしてね。

その危機を回避できたんだから、ホッと一安心だね。
オリーブニュースは「コウノトリの大勝利」(メルマガ版2006/09/07 02287号)って言っていたけど、上手い言い方をしたもんだよね。

本当に、今日の話が単なる好事家の与太話で済みそうでよかったよ。

それじゃあ、僕たちの子孫の末永い繁栄を願って。 Good night!

◎参考:皇室典範問題〜領域の分別/画龍★点晴
http://silverjihn.exblog.jp/3740420

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

 ブログご開設おめでとうございます。何度か拝見しましたが、文章は順調な勢いですね。コメントで添えられるかどうか・・・。
 さて、「地方官吏の友人に訊く」とおっしゃる質問、いきなり難しいですねえ。仰々しい名前でコメントしておきながら、悩んでしまいます。
 景気刺激策の他、経済政策の成果は、長期・中期・短期の流れを重ね合わせて判断されるでしょう。少なくとも、中期(まあ、5〜10年としておきます)と短期(3年以内)は重ね合わせてみるべきでしょう。重ね合わせないと、短期の変動が示す成果やリスクが見えないからです。単なるノイズであるかも分からない。重要な変化であるかも分からない。
 一応、この点を加えておけば、大筋では夜半殿のおっしゃる通りですなあ。早ければ数ヶ月で評価がくだされる。バーナンキFRB議長の評価は、早くもがた落ちですね(藁。
 実務家としては、評価の前提となる「あるべき姿」を考える時点で、何年ぐらいをベースとして描き出すかが難しい。最近の政策は、「100年の大計」という言葉を比べると、かなり短期的な視点で形成されている。大半については、長くても10年ぐらいの範囲でしか考えていないでしょうね。選挙とかもありますけど、キャッシュフローを考慮したら、そんなに長くは考えられないのかも分かりません(特に今の日本では)。常に「財務の立て直し」を組み合わせないと、とても政策を打ち出すことができません。

匿名 さんのコメント...

おおK殿、いらっしゃい。いまのところこの辺鄙な樹海をおとずれる奇特な人は貴官だけです。歓迎しますよ。執政官(コンスル)候補生というのも、なかなか共和主義的でいいじゃないw

さて、質問への早々の回答ありがとう。やはり10年あたりが上限なわけね。短期と中期の重ね合わせについては、「ノイズ」の多い株価変動なんてまさにそうだからよくわかるよ。バーナンキも運の悪いときにFRB議長になったと言うべきか何というべきか(笑)。

それにしても、貧すれば鈍するというか、財務状況が悪化しているときは近視眼的になるもので、政府といえどもこの法則の例に洩れるわけではなく、いまの日本はかなりアレな状態になっているね。僕のよく知っている建材会社も先月大赤字を出して、財務改善を焦った結果、正社員の派遣社員化という何ともアレな策を打ち出して工場を騒がせていたよ。

まあ、これも有限者の限界というやつで、避けがたい業なのかもしれないね。人間には肉体があり、企業には財務諸表がある。生き物が血液循環を単位として生命活動を行うように、企業や政府はカネが一巡りする単位で経済活動を行う、と。そうすると、お互い様態は異なるにせよ、貧したとき「迷い」やすいという点は共通しているのかもしれない。

でも、そこは人智で乗り越えたいところだよね。言ってみれば、そここそが倫理の出る幕だ。ごく長期的にはそれが文明的課題かな。